有限会社ホームネットHD代表取締役 濱中康大のたのしい事、うれいし事、美味しい事、悔しかった事・・・

青い空は~青いままで~

20080806155406

「青い空は~青いままで~子供らに伝えたい♪」
この歌ご存知でしょうか?
ご存知ない方、今日は何の日かご存知ですか?

そうです、「新広島球場竣工記念日」!

では、ありません。「広島原爆記念日」です。

63年前の8/6、朝8時15分に広島に原爆が投下された日です。
私の出身地の尾道は広島市内から80km以上も離れているので、その影響はありませんでしたが、身内に一人被爆してしまった叔母がおります。

幸いその叔母は、爆心地から少し距離があったのと頑丈な建物内にいたお陰で焼けどなどの外傷は負わずにすみました。
63年たった今でも健在です。とっても、明るく、楽しい叔母です。

小さい頃から、私はその叔母に何度も原爆のことを話してもらいました。その話を少し紹介させてください。

当時16歳だった叔母は広島市内の軍需工場に勤めていたらしいのです。
なんでも、軍需工場はやはり敵国から狙われる可能性が高いので、他の職場より給料が良かったらしく、お金に目がくらんだ?叔母はそこに就職したらしいのです。

そして、あの日原爆は投下されましたが、さすがに軍需工場だけに鉄筋コンクリートの建物で、その中にいたので無傷ですんだらしいのです。もちろん放射能はたっぷり浴びてしまいました。そして、それが63年たった今でも叔母の体を苦しめています。

建物から出た叔母は、一瞬にして散々たる地獄絵図に変わってしまった街を見て、「とにかく、実家の尾道に帰りたい、早く帰ろう」と思ったという事でした。

もちろん、車なんぞあるわけもなく、電車だって壊滅状態です。道だってないようなもの。
歩いて帰るしかありません。

真夏の炎天下の中、80数キロの道のりを約1週間かけて歩いて帰ったらしいのです。道中、広島の「ピカドン」から逃げて来た少女を農家の方々は優しく受け入れてくれて、ご飯を食べさせてくれたり、家に泊めてくれたらしいです。

広島に「ピカドン」が落ちたことを知った尾道の実家の家族は、「みんな死んでしまった、生き残った人などいない」と聞かされ、すっかり叔母のことは諦めていたらしいです。

そして、1週間後、叔母は見事に生還しました。
そのときの叔母や家族の喜びは相当なものだったに違いありません。
多分、抱き合って喜んだのでしょうね。

幸い外傷はなく、きわめて元気に帰って来た叔母ですが、それから何年か経った後、さまざまな原爆症に悩まされる事になるのでした。

被爆者の方々の、癌発症率はそうでない方の数倍と言われます。違わず叔母も3度の癌を経験しています。
そして、肝臓にも障害を持ち、毎年、年に数回の入院治療をしています。かなり痛みをともなうものらしいのです。

このように、私は身内に被爆者を持ち、生の声を聞いて育ちました。

原爆、戦争というと昔の話、他人の事と感じてる方々は結構いると思います。
でも、実は本当にすぐ近くにあるものです。もしかしたら自分だったかも知れないと私などは感じます。

幸い?私は叔母から貴重は話を聞く事ができましたが、その叔母ももう80歳です。残念な事ですが、普通に考えればもう数年で亡くなる可能性が高いです。多分、私の子供たちは理解できる年齢には、直接叔母から原爆の話を聞く事はできないでしょう。

わたしは、子供たちに8/6には叔母の話をしようと思います。これは直接叔母から原爆の話を聞く事ができた私の義務だと思います。そして、戦争のない世の中になるよう願い続けたいと思います。

昨今、国際協力という名の下、「戦争参加、協力、支援」など恐ろしいことを話あって、それに合わせた憲法改正、法律制定などの話題が国会をはじめ、いろいろなところで話合われています。

「もう忘れちゃったんですか?頭悪いんですか?記憶喪失ですか?」

私は言いたいです。

多くの人が悲しんで、苦しんで、今なお苦しんでいる人の事を思い出してください!!

飲食店ホームページ制作のフードページ


コメント

いい話し(:_;)今聞いててナケテキたm(__)m

No title

でしょ!いい話でしょう!
実は、この話は嘘ですっていったら殴りますか?

本当に本当の話です。
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